河内長野みぎわ教会
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 【牧師館だより】

1月29日

 10代から20代の頃、視野の広い人間になりたいと思っていました。 心の広い人間になりたいと思っていました。 深い配慮のできる人間になりたいと思っていました。 そのためには、少しでも多くの人と出会い、少しでも多くの世界を見てみたいと思っていました。 幸いにも、大学時代の6年間を東京という街で過ごすことができましたので、 繁華街に出かけて行っては、いろんな職業や立場の人たちに声をかけ、 いろんな世界をのぞかせてもらいました。
 それまでは、想像もできなかった仕事があり、想像もできなかった暮らしがあることを知りました。 そして、誰にも知られないように、 いろんな思いを抱きながら懸命に生きている人たちの姿に出会うことができました。
 一つ一つの出会いを通して、貴重な体験をさせてもらい、 私なりに自分の視野が広くなったように感じたこともありました。 けれども、新しい出会いがあれば、またそこにそれまで知らなかった人の心に気付かされるのです。 どんなに多くの人と出会っても、どんなにいろんな経験を重ねても、 自分の知らない世界がまだまだたくさんあるのです。 それに気付かされた時、自分の視野が広いなどとは、いつまで経っても言えない、と思わされました。
 考えてみれば、この地上で生きている間に知ることのできるものなんてほんの限られたものです。 視野を広げようと思っても、ごく狭い部分しか見ることはできていません。 私たち人間一人一人の領域はほんの小さな世界でしかありません。 それなのに、その小さな世界の中で、悩んだり、喜んだり、悲しんだり、楽しんだり・・・ いろんな感情を大きな問題として抱えながらみんな懸命に生きています。
 傲慢かもしれませんが、神様の人間を愛されるお気持ちを少しだけ感じられたような気がしました。

1月22日

 私たちクリスチャンは、すべてのことを神様が支配しておられ、 すべて御心のままに導かれると信じています。 そして、神様の御心こそが最善であり、それに委ねていきたいと思っています。 ですから、何かを決める時でも、何が主の御心であるかを問うわけです。
 けれども、大切な場面において、主の御心よりも人間の思いが優先されているのではないか、 と思わされることがあります。 以前から気になっていたことなのですが、教区や教団の総会における選挙のやり方です。 議長、副議長、書記、常置委員、常議委員などを選出する際に、すべて選挙で決めています。 誰が当選し、落選するかは、議場にいる議員が誰にどれだけ入れるかで決まってしまうのです。
 私はそのやり方に疑問を感じています。 数人の候補に絞るまでは選挙を行ってもよいと思いますが、 最後は主の御心を問うてほしいのです。 聖書を見てみると、大切な場面において「くじ」を引いています。 ある程度まで人数を絞って、最後はくじを引き、主の御心を問うのです。
 ですから、総会もそれに則って、最後はくじ引きによって 議長や副議長、常置委員、常議委員などを決めてほしいと思っています。 けれども、そうされると困るという人たちもいるのが現状です。 意見や立場の違いで勢力争いがなされている教団、教区において、 多数決で決まるほうが都合がいいと思っている人たちが大勢いるのです。 教団が「委ねる」ということをなかなか実行できていないのが現状です。
 それならば、まずは各教会が声を出していかなければならないのではないかと思っています。 2月にはみぎわ教会の総会があります。 その総会が、自分の思いではなく、主の御心を問い、祈る総会となりますように、心より願います。

1月15日

 私たちのこの地上での生活の中で、欠かすことのできないモノ、 と言われて何を思い浮かべられるでしょうか? 食物、住居、お金・・・いろいろと挙げることはできると思いますが、 無くてもどうにか生きていけるモノばかりのようにも思えます。
 けれども、どうしても欠かすことのできないモノもあります。 それは、礼拝であり、祈りです。祈りとは、神様と向き合い、語り合うことです。 私たちのことをすべてご存知で、 いつも共にいて守ってくださっている神様にすべてをさらけ出して語り合うこと、それが祈りです。 その神様との語り合いの時は、私たちにとって欠かすことのできないモノなのです。
 それで、私たちの教会でも毎週祈祷会を行っています。 木曜日の10時半からと19時半からです。 教会というイエス・キリストの体に連なる一人一人が心を合わせ、 お互いのために祈り合うことが、教会にとって、また一人一人にとって、欠かせないモノであるからです。
 ですから、出来る限り祈祷会に出席していただき、共に祈る時をもっていただきたいと願っています。 けれども、お仕事のある方や、それぞれの事情のために祈祷会に集えない兄弟姉妹もおられます。 ですから、ひとつ提案なのですが、10時半、もしくは19時半に教会に集えなくても、 それぞれの場所で神様を見上げ、祈りをささげませんか? ほんの一言でもいいのです。目を閉じなくてもいいのです。 同じ時間にみぎわ教会の兄弟姉妹がそれぞれの場所で 共にお一人の神様を見上げているということが大切なことなのです。
 毎週木曜日の10時半と19時半は、どこかでみぎわ教会の兄弟姉妹が共に祈っておられる、 神様を見上げておられる、そんな祈りでつながる「時」としてみませんか?

1月8日

 毎年、正月の過ごし方は皆さんそれぞれだと思います。 実家に帰るという方、遠くにいる親戚を迎えるという方、 家族だけで家でのんびり過ごすという方、 正月など関係なしに仕事をするという方・・・ 今年はどのような正月をお過ごしになりましたでしょうか?
 私は、毎年家でのんびり過ごすことが多いです。 そして、いつも楽しみにしていることがあります。 それは箱根駅伝です。駅伝やマラソンに興味のない方は、 人が何時間も走っているのをただ見ているだけで、何がおもしろいのか、 と思われるかもしれませんが、 スタートからゴールまでの間に行われる駆け引きや、 そこに見えてくる人間の心理などを見ていると、ゴールまで目が離せなくなってしまうのです。
 当然今年も箱根駅伝の期間はテレビに釘付けでした。 早稲田大学が去年に続いて優勝するのか、柏原の健闘で東洋大学がリベンジを果たすのか、 それとも強豪駒沢復活か、また、山梨学院と拓殖大学の留学生の活躍や、 上級生となった各校の選手たちの走りなど、興味の対象は数え切れないほどです。
 大会が始まると、予想通りおもしろい展開になりました。 選手たち一人一人がそれぞれの思いを胸に、タスキをつないでいく姿に感動を覚えます。 歯を食いしばって走り続ける選手たちを見ていると、ふと人の人生ということを思わされるのです。 順調な時もあれば、しんどい時もある。下り坂もあれば上り坂もある。 人によって得意なコースもそれぞれ違う。 でもみんなゴールに向かって、次の世代にタスキをつなぐために、必死で走っていくのです。
 そんな私たちを、主はのんびりと座って見ておられるのではありません。 立ち上がり、共に走り、精一杯の声援を送り続けてくださっています。 その主のために、私たちは信仰というタスキをつないでいきたいと思います。

1月1日

 新年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
 新しい年を迎えるにあたって、皆さんの中には、何かを新しくしたという方もいらっしゃるかもしれません。 それまで使っていた古い物を、これを機に新しくして、 新しい一年へと歩み出すという気持ちもまた、大切だと思います。
 私も年末に大きなものを新しくすることになりました。 もうご存知の方、お気づきの方もいらっしゃると思います。車を新しくいたしました。 と言うよりも、新しくせざるを得ませんでした。 これまで乗っていた車が、ここ3週間ほどの間に見る見るうちに動かなくなっていき、限界がきてしまったからです。
 新しい車になるというのは、うれしいことではありますが、古い車への思い入れも強く、淋しい思いもいたします。 振り返れば約9年、22万q近くを共に走ってきた相棒です。 数え切れないほどの想い出が、そこに詰まっています。 その相棒と一緒に行った都道府県を数えてみると、北から南まで36にもなりました。 また、娘が生まれて3ヶ月の時に納車されましたから、娘の成長を見守ってきてくれた車でもあります。 動物好きの娘を、東は東京から西は長崎まで、たくさんの動物園や水族館に連れて行ってくれました。 本当に力強く、気のきく相棒でした。
 そんな相棒も、ついに引退の時を迎えることになりました。 神様が与えてくださった素晴らしい相棒に、心からの感謝を込めて、次の相棒を迎えに最後のドライブをしました。 そして、その日から新しい相棒が我が家にやってきました。 これから神様の御用のために一緒に働いていく相棒です。 448(よしや)ナンバーの相棒をどうぞ用いてやってください。

12月25日

 クリスマスの時期になると、世の中はきらびやかな雰囲気に包まれます。 それと同時になんだか気忙しい空気に包まれていきます。 師も走るほど忙しいと言われるこの時期ですから、 皆さん何かとやることが多くて気持ちも急いてしまうのでしょう。 毎年聞く言葉なのですが、「クリスマスではなく、“くるしみます”です。」 などと、冗談とも本気とも思える言葉が交わされることもあります。 仕事も年末で忙しいし、クリスマスのプレゼントを買ったり、 クリスマスカードや年賀状も書かなきゃいけないし、 家の掃除をしたり、正月に備えて料理も作らないといけない。 それは考えようによっては、やることがあって幸せだとも言えるかもしれません。 けれども、クリスマスの大きな喜びを「くるしみます」と感じてしまうのはなんだか残念にも思います。
 イエスが誕生された日、ナザレの町でも、人々は忙しくしていたことでしょう。 今の日本に住む私たちの生活とは違っていたにしろ、 時間に追われて日々を暮らしていたと思います。 そんな中、町の喧騒とは関係ないところにいる人々がいました。 羊飼いと占星術の博士たちです。彼らは、気忙しさとは無縁の生活をしていました。 言い換えれば、心に余裕を持って歩んでいたのです。 いつでも、神様の御言葉を聴ける状態でいたのです。 そんな彼らのところに、御子のご降誕が知らされたということを、心に留めておきたいと思うのです。
 私たちも、クリスマスを「くるしみます」と感じてはいけない!と思うのです。 仕事をしながら、クリスマスカードを書きながら、 子どものプレゼントを準備しながら、祝会の食事を作りながら、神様の恵みに満たされて、 皆さんの心が喜びで溢れますように、心よりお祈りしております。

12月18日

 先日、新西愛音さんの洗礼準備会を行いました。 その準備会の準備をしながら、私自身、いろいろと思わされることがたくさんありました。 そもそも、洗礼の準備とは何なのか。何をどう準備することが求められているのか。 何のために準備会を行うのか。様々な問いかけをされたように思いました。
 洗礼を受けるまでに、ここまで準備をしなければならない、とは決められていません。 準備のやり方はこのようにする、ということも決められていません。 それは何故かと言いますと、洗礼を受けることは神様の御業だからです。 神様が“その時”を備えてくださり、信仰を与えてくださるのです。 そこに人間の導きや知恵が割って入る隙はありません。 神様がその人を捕えてくださり、出会ってくださったのであれば、 その時が洗礼を受ける時であり、人間がそれに口出ししてはならないのです。
 どうしても、人間が知恵を使って考えると、 その人は洗礼を受けるのに合格か不合格かという視点を持ってしまいます。 礼拝にもよく出席しているし、教会に来るようになってからの年数もそこそこ長くなった。 聖書の内容もある程度知ってきたようだし、そろそろ洗礼を受けてもいいでしょう、 というような視点で求道者の方を見るようになったら、危険です。 神様にとって、そのようなことは関係ないからです。 信仰は頭で理解するものではありません。心で信じるものです。 そのことを、改めて思わされました。
 説教を作る時、聖書の授業をする時、誰かに神様のことを語る時、 つい頭で理解して自分の知恵で語ろうとしている自分がいることを否定できません。 そんな私に神様は、洗礼の準備会とは神様が示される道を共に望みつつ祈る会であることを知らされました。 たくさんの知識は持たずとも、主を真っ直ぐに見つめる彼女の姿を見よ!と示されたことに感謝です。

12月11日

 「クリスマスに洗礼を受けたいと思います。」 アドベントに入り、クリスマスに向けて主の恵みを祈りつつ歩んでいく中で、 とてもうれしい知らせが届けられました。 それは、私の中で、まだもう少し先かもしれない、と思っていた知らせでしたから、 その言葉を聞いた時に、喜びと驚きが同時に私の心にもたらされました。 その喜びと驚きをもたらしてくれたのは、新西愛音さんです。
 思い返してみれば、今年の夏ごろから礼拝での彼女の表情が、 とても真剣なものに変わったと感じていました。 習慣として礼拝に来ている、という感じではなく、何かを考えつつ、 求めながら説教を聴いている、という感じを受けていました。 一度彼女と話をしてみたいと思い、アドベントに入る直前に学校帰りに教会に寄ってもらいました。 その時には、「まだ教会のこととかあんまり知らないから、 まだ洗礼を受けたらいけないかな…。」と思っていたようです。 けれども、主がとらえてくださるのに、知識の多い少ないは関係ありません。 大切なのは、神様を信じ、イエスの十字架と復活によって救われて愛されて生かされていると信じ、 その主に自分を委ねようと思えることです。 そのようなことを話して、数日考えてもらいました。 神様と自分と、一対一で向き合い、祈りながら答えを見いだしてもらいました。 神様が彼女に与えてくださった答えが、冒頭の言葉です。
 高校1年生の時のクリスマス、と言えば、私が洗礼を受けた時と同じです。 私もあの頃、何も知らないまま、ただ主を信じて洗礼を受けました。 いや、今もなお、何も知らないに等しい者です。 ただ主が出会ってくださり、信仰を与えてくださったことに感謝するしかありません。
 愛音さんの洗礼に向けての歩みが主の恵みで満たされたものとなりますよう、教会全体でお祈りしてまいりましょう。

12月4日

 毎日、朝と夜、我が家の犬の散歩をしています。 小型犬ですので、そんなに遠くまで時間をかけていくことはありません。 石川の川べりか、長野公園に上がっていく途中の空き地に行くことがほとんどです。 できるだけアスファルトを歩く距離を短くして、 土の上で自由にさせてやりたいと思っていますので、今の環境はとても恵まれています。 清教学園の生徒たちの登下校の時間と同じになることが多く、 動物好きな生徒たちから撫でてもらったりして、我が家の犬も大喜びです。
 毎日同じコースを通っていきますので、犬も自然と道をおぼえてしまうようです。 教会を出て、左に行き、最初の角を鋭角に右に曲がって石川方面に向かっていくのですが、 火曜日と金曜日だけはちょっと違います。 最初の角を曲がる前に、そのまま直進して自動販売機のところに燃えるごみを置きに行くからです。 いつも曲がるところで曲がらずに、真っ直ぐいく私を、犬は「あれ?」という顔で見ています。 「今日はゴミの日やからね。」と言っても通じません。 理解できない顔のままついてきます。人間の都合までは犬には理解できないですよね。
 それと同じように、神様の都合までは私たち人間には理解できないのではないでしょうか。 いつもと同じように生活をしている中に、突然違う道が示されることがあります。 そのとき、私たちは戸惑うこともあります。 「あれ?自分の進むべき道はそっちじゃないのに…。」と思うこともあるでしょう。 けれども、そんな時には神様が私たちの前を歩みながら、 「今日はこっちなんだよ。」と導いてくださっているのです。
 なぜそっちなのか、その時にはまだ私たちにはわかりません。   でも、神様が導かれる先には大きな喜びがあることは確かです。 信じて、主の御足の跡を歩んでまいりましょう。

11月27日

 本日からアドベントに入りました。 イエス・キリストがお生まれになったクリスマスに向けての歩みの時です。 毎年この時期になると、街中がきらびやかな飾りに包まれ、 楽しげな音楽が流れ、うきうきしたような気持ちにさせられます。
 けれども、キリスト教においては、クリスマスの本当の意味を心に留めつつ歩まなければならないと言われます。 ただ、楽しいだけのお祭り騒ぎに乗せられてはいけません。 クリスマスとは、プレゼントをもらう日でも、ケーキを食べる日でも、恋人とデートをする日でもありません。 イエス・キリストがすべての人々の救いのためにお生まれになった日です。 救いを成就するために、イエスがこの地上でどれだけ苦しまれたか、 十字架にかかりどれだけ痛い思いをされたか、私たちは忘れてはなりません。 愛する御子を十字架にかけて殺すということを前提に、この地上に送ってくださった神様の御心も忘れてはなりません。
 クリスマスに込められた本当の意味を思うと、 ただ騒いでいるだけの日本人に腹が立つという声も聞くことがあります。 確かにイエスの苦難の道も忘れるわけにはいきません。 けれども、私たちの救いのために神様が用意してくださった喜びの日でもあるのです。 本当の意味を知らずに、きらびやかに飾られた街や、楽しげな音楽や、 寄り添う恋人たちの姿に、ただ目くじらを立てるよりも、 そこに生きる一人一人の幸せそうな姿に主の恵みを見いだしていきたいと思うのです。 そして、できうる限り、クリスマスの本当の意味を知らない人々に、 主の恵みを語っていこうではありませんか。
 一人一人が今生きていることに深く関わっているクリスマスの日、 「今年は、本当のクリスマスを過ごしてみませんか?」と声をかけ、 多くの方とともに主のご降誕の恵みを分かち合いたいと願います。

11月20日

 今年度、私は清教学園の高校三年生を担当しています。 高校三年生の授業は2学期で終わるため、聖書の授業もあと1、2回で終わってしまいます。 毎回の授業の最後に、その日の授業の感想や質問などを書いてもらっているのですが、 いろんなことを書いてくれるので、いつも楽しみに読ませてもらっています。 思わず声に出して笑ってしまうようなものから、誰にも言えないような深刻な内容まで、 様々なのですが、私のほうが考えさせられ、教えられるようなことを書いてきてくれる生徒もいます。
   先週の、マタイ6章の「復讐してはならない」という箇所に基づいて授業をした際、 一人の女子生徒が書いてきてくれた内容に、とても深いものを感じました。 彼女が書いてくれたのは、こういう文章です。
 『私は他人に向かってイラッとすることは多い方だと思います。 でもあまり本人には言いません。なぜなら、自分のことを棚に上げて人のことを言えないからです。 腹の中は真っ黒でも、行動は白くありたいです。』
 最後の部分の、『腹の中は真っ黒でも、行動は白くありたい』という一言に、     思わず自分自身の歩みを顧みさせられました。 自分の腹の中は、真っ黒で、汚れていて、とても人に見せられるものではありません。 それを清める力も自分にはありません。 そんな自分でも、行動は白くあることができるのではないか、 そのように歩ませていただけるのではないか、そう思わされたのです。 もし、腹の中にこんなに黒いものを持っている自分が白く歩ませていただけるとしたら、 腹の中も白い方の歩まれた道を辿るしかありません。 右にも左にも逸れることなく、真っ直ぐにその道を歩めれば、 こんな自分でも白い歩みをすることができるのかもしれません。
 イエスのみあしの跡を歩んでいきたいものです。

11月13日

 一昨日の金曜日、大阪芸術大学に行ってきました。 浅田真那さんが出演する演劇の舞台を観るためです。 真那さんの演技を観たいという思いが一番にありましたが、 実は私は体育会系に見えて、意外と演劇も好きなのです。
 舞台が始まり、真那さんの登場を今か今かと待っていますと、出てきました!! ピンクの衣装を着た可愛い女の子の役です。 彼女のとても通る声はお父さん譲りでしょうか。 表情のちょっとした変化にまで細かく気配りがされてて、さすがだな、と思わされました。 あんなに一生懸命打ち込めるものに、若いうちから出会えるということは、 本当に幸せなことだと思いました。
 ストーリーとしては、1900年頃のアメリカの小さな町の日常生活を描いたものです。 当時のアメリカでどこにでもあるような人々の生活の一部分を切り取ったものを、 そのまま描いているような、素朴な作品です。 隣り合わせた二つの家庭を中心に、子どもたちが成長し、 結婚し、やがて死を迎えるまでの日常を追っていきます。
 そこに人々の気持ちが絶妙のバランスを取りながら交錯していく様子が描かれていることで、 作品の中に引き込まれていくような感覚を覚えました。 地上では様々な悩みを抱えながら、人間はあくせく生きているけれども、 そんな毎日に追われているために、 そこがどれだけ素晴らしい世界なのか気付いていない。 死んでしまって、その世界を顧みた時にはじめて、 自分が生きてきた世界の素晴らしさに気付かされる。 平凡で悩みだらけだと思っていたあの世界の素晴らしさに。
 そのストーリーの根底には、「神に守られ、導かれている」 という思いがあるのでしょう。 すべては神の定められた通りに行われ、その中で一喜一憂する人々の姿。 その姿を愛おしいと改めて思わされた舞台でした。

11月6日

 先週の日曜日の午後、扇町教会において教区の教育セミナーが行われました。 毎回様々なテーマで行っていますが、 今回は「教会って何?」というテーマで、 若い世代の人たちが教会に対して日ごろ思っていることを 自由に語ってもらえるような場を提供しよう、 そしてそれを幅広い世代の人たちに聴いてもらおう、という趣旨で行いました。 毎回30名くらいの出席があるのですが、 今回は55名の参加で予想をはるかに上回る盛会となりました。 みぎわ教会からもたくさんの兄弟姉妹が出席していただき、本当に感謝しています。
   開会礼拝では、みぎわ教会の賛美チームのリードでプレイズを賛美し、 パネラーとして白佳奈姉が教会に対する思いを語ってくださいました。 会場からもそれぞれの教会の様子や、 青年たちの様々な声を聴くことができ、参考になることも多々ありました。
 教会に青年が少ないと言われるようになって、もう随分経ちました。 その課題を克服できずに日本の教会は今でも苦労していると言っても過言ではありません。 そんな中で教会に集っている青年の声をじかに聴くことができたことは感謝なことでした。
 中でも私が印象に残っていることは、 教会の中で自分の役割を与えられることによって 青年たちが自分の居場所を持つことができているという意見でした。 役割を与えられることで責任も負うことになり、 教会で何かをしてもらう“お客さん”ではなく、 自分から自発的に何かをする“家族”という意識を持つことができるようになるのです。
 私たちは主の家族です。主が必要としてくださっている一人一人なのです。 自分の家に帰ってきて、「いらっしゃいませ」とは言われません。 教会でも、お互いに「いらっしゃいませ」ではなく、 「お帰りなさい」という気持ちで礼拝にともに集いたいと思います。

10月30日

 私が普段の生活の中で、 特に気をつけていきたいと思っていることがあります。 それは、律法主義に陥らないようにしないといけない、ということです。 律法主義というものは、世の中の至るところに存在しています。 「〜しなければいけない」「〜するべきではない」 そのような言い方によって、神様の自由なご計画を制限してしまうものとして、 私たちの信仰生活に入り込んできます。
 決まりごとやマニュアルがあったほうが、 私たちには居心地が良いのかもしれませんが、 それによって神様の御業を制限してしまってはいけないと思うのです。 そのような視点を持って、一つ一つの事柄に向かい合っていきたいと思っています。
 たとえば礼拝において、神様の恵みをいただくために、 もっと工夫できる所はないでしょうか。 「変える」、というよりも「取り入れる」という視点で考えていただきたいと思うのです。 今の礼拝において、讃美歌は「プレイズ」と「讃美歌21」を使っています。 けれども、ほかにも54年度版の讃美歌や、聖歌、新聖歌など いろいろな讃美歌集があります。 それらを取り入れることによって、より幅広い賛美をすることができるようになります。 聖書は、新共同訳聖書を使っていますが、 説教を作るときには、その他の訳の聖書にも目を通しています。 ギリシャ語の聖書も読みますが、それは少しでも広い視点で神様の恵みをいただくためです。
 決まった形を作って、それにこだわり過ぎるのではなく、 神様の恵みをもっと貪欲に求めていくことも大切なことだと思うのです。 少しでも多くの恵みをいただけるように、 皆さんからもどんどん提案をしていただきたいのです。 神様はもっと私たちに恵みを与えようとしておられます。 私たちもそれにお応えしていこうではありませんか!!

10月23日

 私は今年度、清教学園で高校3年生を担当しています。 これまでの3年間はいずれも高校1年生を担当していたので 初めての3年生の授業で新鮮なことがたくさんあります。 中でも1年生と一番違うところは、皆受験生であるということです。
 清教学園の場合、ほとんどの生徒たちが大学進学を希望しています。 しかも、京大、阪大、神戸大などの難関校を目指す生徒がかなりいます。 自然と教室の中はピリピリと張り詰めた空気になります。
 聖書の授業の最後に5分ほどの時間が余って、 「チャイムが鳴るまで自習していい」と言うと、 みんないっせいに問題集を開いて勉強し始めます。 現役での難関大学合格が当たり前。浪人などもってのほか。 教室の掲示板には「センター試験まであと○○週間」と書かれた紙が貼られ、 毎週行われる小テストの得点上位者の名前も並べて貼られています。
 2学期になって、次第に生徒たちが追い詰められたような 表情になってきたのを感じています。 私が受験生だった頃のことを思い返してみると、今の清教学園は、 高校というよりも、大手予備校の雰囲気に近いと感じます。
 けれども、大学に入るまでに4年も浪人した私からすれば、 そこまで追い詰められるほど勉強する意味はなんだろうか、と思えてくるのです。 希望の大学に入れなかったら人生が終わる、という悲壮感さえ漂っていますが、 たかだか1年や2年遠回りするくらい、どうってことないと思うのです。 遠回りすることで得られるものもあります。 私が妻と出会ったのは、2浪の時に予備校の中においてでした。
 「お前は絶対にこの大学に合格しろ!」という教育ではなく、 「神様が最善の道を備えてくださるから精一杯の努力をしたらあとは委ねよう。」 という教育がなされるようお祈りください。

10月16日

 文章を書くことが好きな私にとって、 この「牧師館だより」を書くことが毎週の楽しみになっています。 いつも、何を書こうかと考える時間も楽しいものです。 題材がすぐに浮かばない時には、 私の部屋にいる猫をからかって遊んでみたりします。
 先日も何を書こうか・・・と考えながら猫をじゃらしていたとき、 その猫を見ながらふと思わされたことがありました。     猫の気を引くように、おもちゃを動かしていると、 猫は低い姿勢を取って獲物を狙ってきます。 その時、黒目は大きく開き、 一瞬たりとも目を獲物から逸らすことはありません。 目だけではありません。 全神経を獲物に集中して、とびかかるタイミングを計っています。 脇目もふらずに、という表現がぴったりの姿です。 そんな時に、猫の尻尾の付け根のあたりをいきなり触ってやると、 飛び上がらんばかりに驚きます。 後ろからの気配にも気付かないほど集中しているからです。
 そんなことをしながら、猫と遊んでいるのですが、 その猫の姿から学ばされることがあることに気付いたのです。 後ろからの気配にも気付かず、他のものには一切脇目もふらず、 ただ一つのものに集中するということが、 自分には一日のうちにどれほどできているだろうか、 ということです。 私たちが神様に祈る時、ただ神様だけを見つめ、 神様だけに心を向けることが求められています。 けれども、私たちの耳は周囲の音を聞き、 鼻は漂ってくる匂いを嗅ぎ、頭は様々なことを考え、 心は四方八方に乱れ・・・ なかなか神様だけに集中できない現実があります。
 しかし、イエスはおっしゃいました。 祈る時には奥の部屋に入り、 隠れたところにおられる主に祈りなさい、と。 神様だけを見つめながら祈ることの大切さと、その姿を、 思いがけなく猫に教えてもらいました。

10月9日

 「幸せ」とは何か、と問われたら、 皆さんならどのようにお答えになるでしょうか? いろいろな答え方があると思います。 「愛されていること」とおっしゃる方もおられるでしょう。 逆に「愛すること」という方もおられるでしょう。 また、「家族」「趣味」「睡眠」「ごちそう」 などという言葉を連想される方もおられると思います。 「幸せ」という一つの言葉でも、人それぞれ、 いろんな思いを持つものですし、 どれか一つが正解というわけではありません。 それに、自分の状態によっても、 その時その時「幸せ」についての思いが変わるものです。
 では、私が今、「幸せ」とは何かと問われた時、 なんと答えるだろうと考えてみて出てきた言葉は 「信じること」でした。 たとえば、人間関係において相手を信じることができていれば、 その人と向き合っている時は幸せなのです。 けれども、信じられなければ不安になったり、 恐怖を覚えたり、怒りを感じたり・・・ 幸せとは程遠い気持ちになってしまいます。 相手を信じられずにいたら、 何でも語ることも躊躇してしまいます。 多少言葉が足りなくてもちゃんと受け止めてくれるだろうと 相手を信じて語ることができる時、とても幸せです。
 どうしても、私たちは傷つきたくないために、 初めからあまり信じないほうがいいと、 心にバリアを張っているのかもしれません。 疑ってかかったほうが傷つかずに済む可能性は高いかもしれません。 けれども、どちらのほうが幸せなのでしょうか。
 信じるということは、勇気のいることです。愛も必要です。 何かの時に相手を赦す覚悟も必要です。 でも、思い出してみてください。 そんな私たちこそ、神様から信じ、愛され、 赦されている存在なのです。

10月2日

 今日は、この欄を通して、 皆さんのご意見も聞かせていただけたらありがたい、 という気持ちで書かせていただいています。
 私が和泉学園という少年院で教誨師という奉仕を させていただいていることは前にも書かせていただきました。 先週水曜日にも和泉学園に行ってまいりました。 毎回その日面接する少年のことは、当日聞かされるのですが、 今回は殺人を犯してしまった少年二人との面接でした。 そのように書くと、恐ろしい少年の姿を想像されるかもしれませんが、 実際はどこにでもいそうな可愛らしい普通の少年です。
 最初に面接したA君は罪を悔いて、毎日聖書を読み、 祈っているそうです。 けれども、わからないところが多くあるため、 聖書にたくさんの付箋が付けてあって、次々に質問してくれました。 出院したら教会に行って聖書の教えに忠実に歩んで行きたい と言ってくれました。
 次に面接したB君も、自分の犯した罪を思いながら、 毎日祈っているそうです。 その祈り方などを質問してきてくれました。
 二人とも、尊い命を奪ったという重い重い荷物を 背負って生きていかなければなりません。 出院してからも、その罪のために苦しむことも多々あるでしょう。 被害者の家族の立場に立てば、 彼らを恨む気持ちは想像もつきません。 世間の目も彼らに対して冷たく鋭いでしょう。 それだけのことを、彼らはやってしまったのです。
 そんな彼らに、それでも救いを語らなければなりません。 必要な命であることを伝えなければなりません。 なぜなら、神様が彼らを生かしておられるからです。 罪を悔い、遺族のために祈り、生かされていることを感謝し、 与えられた命を生きる・・・ 彼らに語ることのできる言葉をただひたすら祈り求めるしかありません。

9月25日

 先週、水曜日に東京の早稲田にあります、 日本基督教団本部の会議室で、 「第2回 全国青年担当者会」が行われ、 それに出席をしてきました。 会の前半は、各教区における青年伝道や 青年たちの働きについての報告、 後半は、お二人の講師による発題がありました。
 発題をしてくださったお一人は、雲然牧師という方で、 秋田県の教会の牧師であり、教団の書記を務めておられる方です。 お年は54歳とご自分でおっしゃっておられました。 その雲然牧師のお話の中で、とても興味深い言葉が飛び出してきました。
 「私の娘は20代前半なのですが、RADWIMPSの大ファンなんです。 それで、私もRADWIMPSの曲を聴いてみたんですが、 歌詞が素晴らしいんです。非常に深いです。」
    失礼を承知で書きますが、54歳のおじさん牧師の口から RADWIMPSの歌詞が素晴らしいという言葉が飛び出してくるとは 思ってもみませんでした。 そもそも、RADWIMPSとはなんぞや?と思われる方も いらっしゃるでしょう。今、若者の間で大人気のロックバンドです。 ちょっと興味のある方は、インターネットなどで検索してみてください。 ちなみに、私のオススメの曲は『愛し(かなし)』です。
 RADWIMPS以外にも、素晴らしい歌詞を書くアーティストは たくさんいます。そして、そんなアーティストを愛し、 その歌詞に心を救われている若者たちがたくさんいます。
 「だからこそ、説教はRADWIMPSの歌詞以上に若者の心をつかむものでなければならないんです!」 という雲然牧師の言葉がとても印象的でした。
    若者たちは、心を潤し、癒し、導き、救ってくれる「何か」を求めています。 その「何か」が教会にあるということを感じてもらうために、 私たちにできることを考えていきたいものです。

9月18日

 正直に申しますが、私は新共同訳聖書よりも、口語訳聖書のほうがずっと好きでした。 讃美歌も、讃美歌21よりも以前の讃美歌のほうが好きでした。 言葉の使い方や、言い回しなどに、日本語ならではの美しさを持っていたのは、口語訳聖書や従来の讃美歌のほうだと思います。  聖書に関しては、口語訳聖書よりもさらに古い、文語訳聖書のほうが個人的には好きです。
 そんな私ですから、口語訳聖書から新共同訳聖書に変えようか迷っている教会に対しては 「そのまま口語訳聖書を使用されるといいですよ。」とお勧めしてきました。讃美歌も、従来の讃美歌にかなりこだわってきました。
 けれども、最近になって考え方が少しずつ変わってきました。 日本語ならではの美しさを求めるのであれば、文語訳聖書や従来の讃美歌を用いたほうがよいでしょう。 ただ、教会の礼拝において、何を求めるのかということを考えた時に、 日本語ならではの美しさというものは、最重要項目ではないということに気付かされたのです。
 誤解を恐れずに言うならば、正しく訳されていさえすれば、聖書はどの訳でもよいのです。 神様を賛美できるのであれば、讃美歌はどれでもよいのです。 その聖書を通して、神様の御言葉を聴くということ、その讃美歌を用いて神様の御名を賛美するということ、 それが最重要、かつ必要事項なのです。
 もちろん、個人的な好みは人それぞれですし、この聖書、この讃美歌のほうが好きだという気持ちも大事にしたいものです。 けれども、自分の好みを主張しすぎて、主の御声に耳を傾けることも御名を賛美することもできなくなることのないように、 気をつけたいものです。物事の表面的なことにはあまりこだわらず、信仰の本質の部分をしっかりと見据えて、 御言葉を聴き、賛美してまいりたいと思います。

9月11日

 先日、奥村姉のお見舞いに行きました。私が顔を出すと、ベッドに横になっておられた姉妹は、ちょっと驚いたような、 うれしそうな顔をされて、ベッドの上半身部分を置きあがらせつつ、私に椅子を勧めてくださいます。 姉妹のベッドは8人部屋の一番窓側にあるため、隣を気にせずに椅子に座ることができます。
「まぁ先生、お忙しいのにありがとうございます。」そんな姉妹の言葉からいつも会話が始まります。 まずは回復具合についていろいろとお話してくださいます。もう歩行器を使わなくても、病室内なら歩けるまでに回復されたようです。 あと少しで退院できそうだとおっしゃっておられました。
 それから、教会の話になります。礼拝のこと、祈祷会のこと、兄弟姉妹のこと、役員会のこと、執事会のこと、 教会学校のこと・・・話は尽きません。 あまり長居してもいけないと思いつつ、共に教会のこと、信仰のことを語らううちに、いつしか時間を忘れて夢中になってしまいます。 ふと気付いたらもうこんな時間!!と毎回のように驚かされます。
 イエスが十字架にかかられた後、エマオへと向かっていく途中の弟子たちにイエスが姿を現されて、 神の摂理を語られた時、イエスが見えなくなってから二人の弟子たちは言いました。 「主と語りながら歩んでいた時、わたしたちの心は燃えていたではないか。」 まさに、その経験をさせていただいていると思うのです。私たちは何を話題にしようと自由です。 それならば、教会のこと、兄弟姉妹のこと、信仰のこと、伝道のことについて語り合いつつ歩んでいきませんか? 目には見えずとも、その時主が私たちの会話に加わってくださって、私たちの心は喜びと感謝に燃えることでしょう!!

9月4日

 人間の心というものは勝手なものだと思わされることがあります。自分が経験したり携わったりした 事柄に関しては興味を持ったり真剣に向きあったりできるのですが、そうでなければ無関心でいるということが、よくあります。
 私は、和泉学園との関わりを持つようになって、初めて真剣に考えるようになったことがあります。それは、 様々な事情により施設で暮らすことを余儀なくされている子どもたちのことです。様々な事情と言っても、そのほとんどが “大人”の事情です。現在、親元を離れて施設で生活している子どもたちは、日本全国で47,000人にものぼっています。 私が和泉学園で面接をする子の中にも、親が引き取りを拒否したために、出所後施設に引き取られる子が少なくありません。 2歳、3歳くらいの頃からずっと施設で生活してきたという子も多いです。
 もし、その子たちが、実の親元ではなくても、家庭の温もりを感じながら、愛されて大切にされる経験をしながら 育つことができていたならば・・・と思わされることもしばしばです。
 現在日本では、里親制度というものがあります。施設などで生活をせざるを得ない子どもたちを引き取り、 家庭の中でその子の“親”として共に生活をする制度です。まだ数カ月の赤ちゃんから中学生、高校生の年齢の子まで 幅広く募集されています。期間も長期間のものから月に1、2回週末だけというものまで様々です。
 和泉学園に関わるまで何も知らずに無関心でいた私が言うのも申し訳ない気もするのですが、親の愛情を知らない子たちが、 たとえ一時期であっても温かい家庭の中に身を置き、そこで少しでも幸せを感じてくれることを心から願っています。 どうか子どもたちが笑顔でいられますように・・・。

8月28日

 夏の休暇をいただいて、約一週間、故郷の福岡に行ってきました。ファミリーキャンプが終わった翌日からの休暇でしたので、 ゆったりとした予定を立てていたつもりなのですが、予想以上にハードな一週間となりました。その分、 たくさん楽しめたことは感謝です。
 福岡に行って、まず楽しみなのは食べ物です。長浜ラーメンや新鮮な魚、そして柳川の鰻のせいろ蒸し。 ちょっと足を延ばして佐賀や長崎、大分などに行けば、さらに美味しい食べ物があります。 おかげでこの一週間で2キロ近く太ってしまいました。
 もちろん、楽しみなのは食べ物だけではありません。長崎や熊本の阿蘇で動物と触れ合ったり、長崎港の夜景を見たり、 阿蘇山の壮大な自然に触れたり、ひなびた風情のある宿で温泉に浸かったり、憧れの西鉄バスの写真を撮りまくったり・・・。 毎日あまりにも濃い時間を過ごしていたために、一週間前の出来事がずいぶん前のことのように思われるほどでした。 娘はさすがに疲れたようですが、それでも「ずっとこんな毎日やったらいいのに。」と言ってくれた言葉を聞いて 親としても満足感を得ることができました。
 そんな楽しい一週間を過ごすことができましたが、それでもみぎわ教会に帰ってきたら、ホッとしました。 毎日同じようなことの繰り返しのようですが、その日常に戻ることで、すごく落ち着くのです。特別なことばかりせずに、 同じことが繰り返されるということは、ある意味で大切なことなのかもしれません。
 ひとときの楽しみに私たちは心を奪われることがありますが、それはあくまでもひとときであって、永遠ではありません。 永遠の安らぎを与えられる場所に「ただいま」と言って帰ってこられる!!ありがたいことです。

8月21日

 8月15日(月)から16日(火)の日程で日高少年自然の家においてファミリーキャンプが行われました。 子どもと大人合わせて33名の参加で、天候にも恵まれ、とても楽しい二日間を過ごすことができました。
 海でのプログラムでは、カヤックやカヌーに乗ったり、海水浴をしたりしながら、すぐ近くにいる魚や、 やどかりを見つけては子どもたちが歓声をあげていました。
 キャンプファイアーでは、ギターの伴奏に合わせて賛美をしたり、青年たちのリードでゲームをしたり、 藤居ライアン兄の証を聴いたり、花火をしたりと、盛りだくさんの内容でした。
 夜の時間は、女性部屋の様子はあまりわかりませんでしたが、男性部屋のほうは、大人部屋と子ども部屋とに分かれていたので、 私は子ども部屋のほうで過ごしておりました。子どもたちとしては、最高にテンションの上がる時間帯です。案の定、 盛り上がり過ぎて何度か注意もされていました。それでも、遊び疲れたのでしょう、ある時間になると一斉に電池が 切れたかのように深い眠りに落ちてしまいました。
 二日目は、分級をして、また海で遊びました。前田家から差し入れしていただいたスイカも食べて、大満足。
 教会を出発して、帰ってくるまで、みぎわ教会の子どもたちの笑顔と歓声に満ちたファミリーキャンプでした。
 私も子どもの頃には、教会の修養会やキャンプに参加するのがとても大好きでした。小さい頃はただただ楽しいだけでしたが、 中高生になるにつれ、教会という家族のぬくもりや絆をそこに感じるようになっていきました。その経験が信仰へと 結びついたことは言うまでもありません。今回のキャンプを通して、みぎわ教会の子どもたちの心にも信仰の土台が 据えられたことを信じ、心から感謝しています。

8月14日

 どんなことにも共通して言えることだと思いますが、実際に経験をしてみて初めてその人の気持ちがわかるものです。 礼拝の中でも、自分が奏楽をしてみて初めて奏楽者の気持ちがわかるでしょう。献金当番も、受付も、すべて同じように言えます。 さらには、聖書の登場人物の気持ちも、実際に経験してみてより理解できるということがあります。パウロの説教が長くて、 眠ってしまい、2階から落ちた青年の気持ちがよくわかる、と学生の頃によく思ったものです。
 そんな私が、先日初めて海釣りというものを経験いたしました。釣りというものを今までほとんどやったことのない私ですが、 やってみると意外にも楽しいものだと気付きました。何も釣れずにじっと待っている間も、特に退屈するわけでもありませんでした。 防波堤に打ち寄せる波の音を聞きながら、じっと魚がかかるのを待つ時間も楽しいものです。これは、 釣りをするのに合った性格なんだろうと思いまして、自分の釣り竿を買い、今度は一人で出かけてみました。 一日の仕事を終えてからの夜釣りです。糸を垂らした先にはどこまでも続く真っ黒な海、上を見上げれば満天の星空。 神様が造られた壮大なる世界の中にどっぷりと浸かっている、そんな気持ちになりました。
 その夜は一匹も釣れませんでした。始めたばかりの私でも、一匹も釣れないとちょっとがっかりします。ましてや、 プロの漁師が夜通し網を投げても一匹も釣れなかったらどれほどショックでしょうか。イエスがペトロたちを弟子とされたのは、 夜通し漁をしても何も獲れなかった朝のことでした。あの時の彼らの気持ちを釣りを通して少し 理解させてもらえたような気がしました。釣りの腕前が上達すれば、さらに何か見えてくるのかもしれません。 何が見えてくるのか、楽しみです。

8月7日

 私が、今までに行ったことのあるレジャー施設の中で、一番接客の良いところは、東京ディズニーリゾート(TDR) だと思っています。TDRでは、お客さんのことを「ゲスト」と呼びます。その時点ですでに意識の持ち方が違うのです。 とにかくゲストを大事にする姿勢は素晴らしいものであると思います。もし、場内で迷っている様子の人を見かけたら、 スタッフがすぐにやってきて、声をかけてくれます。どのスタッフも、常に素敵な笑顔で接してくれます。 心の行きとどいた最高のサービスを提供しようという気持ちが伝わってきて、いつ行っても、何回行っても、気持ちよく一日を 過ごすことができます。何しろ、TDRは「夢の国」なのですから、夢のように素敵な時間を過ごすことができるのです。
 けれども、夢ではなく、現実の世界において、私たちに最高の時間を提供しようと神様が用意してくださっている場所があります。 それが、教会における礼拝です。まさに、神様からの最高のサービス(礼拝)です。その場へと毎週招待券を送っていただき、 特別の待遇を私たちは受けているのです。礼拝という場では、他のどんな場所よりも大きな喜びがありますし、 心が満たされる場所です。
 とはいえ、やはり初めてその場に来た人にとっては、右も左もわからないところです。そこで何をすればいいのか、 次にどの本を開けばいいのか、戸惑ってしまうのは当然でしょう。そんな方に、教会員である私たちはどのように 接しているでしょうか?どれだけ新来会者の立場に立って案内できているでしょうか?そのような点に関しては、 TDRのスタッフに学べるところが大いにあると思うのです。皆さんの身近に接客の良いお店があれば、 是非そこから学びたいと思います。それもまた、私たちにできる伝道の一つです。

7月31日

 今日、教会に来られて私をご覧になった方は、私の色の変わりように驚かれたのではないでしょうか。 実は、毎年この時期に突然日焼けをするのです。その原因は、清教学園の野球部の応援です。 2時間ほど球場で応援していますと、ご覧の通り真っ黒に日焼けしてしまいます。学生の頃に野球をやっていた私にとって、 野球部の応援は毎年の恒例行事のようになっています。
 暑い中出かけていく私に、熱心ですね、と声をかけてくださる方もおられます。また、生徒のために時間を割いて大変ですね、 とおっしゃる方もおられます。私も、最初の頃は自分の意思で、生徒とより良い関係を作るということを考えていました。 生徒たちに伝道するにはどうすれば良いか、どのような方法があるか、自分で考えて、行動していたように思います。
 けれども、いつの頃からか、その気持ちが変わってきました。自分で考えた行動をする、というよりも、 何かに促されるようにその行動をしてしまうという風になりました。では、何に促されているのかというと、 生徒たちに対する強い気持ちです。その気持ちの中には、愛情や感謝や尊敬などの想いが詰まっています。野球部に限らず、 何かに必死で取り組んでいる時の彼らの姿から、多くのものを学ばせてもらっています。 そのような生徒たちとの出会いを与えてくださった神様に心から感謝しています。
 ともすれば、自分の知恵を絞って生徒たちに伝道しようとしてしまいますが、神様が求めておられる生徒との 関係はそれではないと思うのです。与えられた出会いに感謝し、若い命に注がれている神様の愛を感じつつ、 衝き動かされるままにこの身を委ねていくこと、それが伝道だと思うのです。日焼けも、他の先生の批判も恐れず、 ただ主にのみ従っていきたいと思います。

7月24日

 サッカー女子ワールドカップ、なでしこJAPANが見事優勝いたしました。サッカーの世界大会で優勝というのは、 日本では初めての快挙です。サッカーにはあまり興味のない私も、今回ばかりは女子サッカー日本代表チームを心から 称賛したいと思います。特に私が感動したのは、決勝の試合で延長に入ってからリードされたにも関わらず、 再度同点に追いついた場面です。最近の日本の試合を見ていると、どのスポーツでも精神的な弱さを感じます。 あの決勝でもアメリカに先制された時点で諦めムードが漂っていたのが、今までの日本のチームでした。けれども、 最後まで諦めずに、同点に追いついた精神力は素晴らしいと思います。久しぶりに一流の試合を見たと感じました。
 ただ、その後の日本の状況を見て、物申したくなったのは、私だけでしょうか。連日のように加熱する報道、 それまで「なでしこJAPAN」という名称も知らなかった人たちが、途端に「なでしこ、なでしこ」と騒ぎだす様子などを 見ていると、何だか違和感を覚えるのです。なでしこが帰国する時にあれだけ大勢の人々が空港に押しかけましたが、 彼女たちが出国したのがいつなのか、知っていた人はどれだけいたでしょうか。おそらく、 なでしこフィーバーももうすぐおさまり、年末の流行語大賞に「なでしこ」が選ばれた時に「ああ、 そんなこともあったな」と思い出す程度ではないでしょうか。
 そういうところが、日本人の弱点だと私は思います。熱しやすく冷めやすく、メディアの報道を鵜呑みにしやすい性質を 現代の日本人は持っているようです。けれども、信仰においてはそうあってはなりません。一時的に熱狂するのではなく、 落ち着いて静かに神様の御声を聴き続ける歩みをしたいものです。私たちは最後には勝利を約束されているのですから。

7月17日

 河内長野みぎわ教会は、日本基督教団の教会です。さらに詳しく言うと、日本基督教団の大阪教区にある教会です。  大阪教区というのは、大阪府、奈良県、和歌山県の3府県にある教会で構成されています。大阪教区には、いくつかの 委員会があり、私もその中の教育委員会に委員として参加しています。その教育委員会が主催する行事は大きく二つで、 「教育セミナー」と「賛美フェスティバル」です。今は、秋に行われる「教育セミナー」に向けての準備をしています。 その内容は、教会学校、青年伝道、葬儀など、多岐にわたり、その年にどのテーマで行うかは教育委員会に委ねられています。 今年は、青年層にスポットを当てて、若い人たちの声を聴ける場を設けようということになりました。
 委員会の中で、今の教会が直面している問題の一つとして挙げられたのが、青年の教会離れです。もともと 教会にいた青年もいつしか教会を離れ、時々新来会者として来てくれる青年も定着しないという現実がほとんどの教会にあります。 それがなぜなのか、考えていく中で、「青年が意見を言える場が少ない」ということも原因の一つだという意見が出されました。 柔軟で斬新な発想を提案しても、教会の伝統という大義名分のもとに却下されることが多いと、 「どうせ言っても受け入れてもらえない」という諦めのほうが先に立つというのです。
 確かに、教会の伝統も大切なことです。けれども、それにしがみつくことがすべてではありません。 変えてはいけないものさえ変わらなければ、変わってもいいことはたくさんあります。50年後、100年後の教会を考えた時、 私たちはもっと柔軟に、賢明になる必要を感じるのです。本日礼拝後、細かいことにとらわれず、教会の「これから」を 共に大胆に語り合いましょう。

7月10日

 先週一週間、清教学園では期末試験が行われていました。私も二日間、4クラスの試験監督に行ってまいりました。 試験監督というのは、なかなか時間を持て余すものです。何度か机の間を見回りしますが、何度もウロウロされると 生徒の邪魔になるので、20〜30分に一度程度しかできません。そこで、私も生徒たちが解いている問題を解いてみようと 思いました。余りの問題用紙を開いて、いざ問題に向き合ってみたのですが、全く歯が立ちません。国語や英語ならばまだ 考える余地くらいはありますが、数学の問題など、何をどうしていいのかさえわかりません。けれども、 考えてみれば高校時代も数学でまともな点数を取ったことがなかったのですから、この年齢になって問題が解けるはずがないのです。 結局時間を持て余し、次々に問題を解いていく生徒たちを尊敬のまなざしで見つめておりました。
 学校の成績は中学以来落ち込む一方だった私にとって、試験というものにいい思い出はあまりありません。ただ、 その中でいくつか忘れられない試験があります。その一つが正教師試験です。不合格なら、教会の皆さんにご 迷惑をおかけしてしまいます。それに、その時受洗志願者がおられ、私が合格すればその年のクリスマスに洗礼式を 行えるのです。教会の皆さんはもちろん、近隣の教会の牧師や信徒の方々など、多くの方の祈りに励まされつつ、 また同時に大きなプレッシャーを感じつつ、試験に臨んだことを今でもはっきり覚えています。「合格」 と言われた時の気持ちは言葉では表せません。「神様…」の先に続く言葉が出ないまま、ただ感謝の気持ちを神様に 向けて祈りました。あの時の気持ちを、試験監督をするたびに思い出すのです。定期試験の監督の時間は、 暇を持て余すだけではなく、そんな感謝の時間でもあります。

7月3日

 先日、ふと思いつきで高野山に行きました。時々、思いつくままというか、導かれるままというか、あまり計画を 立てずにぶらっと出かけることがあります。するとそこに意外な発見があったり、何かに気付かされたり、 初心を思い出させられたりすることがあります。初めて行く高野山で、どんな発見があるのか、何を思わされるのか、 わくわくしながら電車に揺られながら車窓からの景色を眺めておりました。
 まず私の心を躍らせたモノは、橋本駅から先、単線になってからの九十九折りの行程でした。右に左にカーブしながら、 ゆっくりゆっくりと急こう配を登っていく電車と、のんびりと流れていく山々の景色。神様の造られた世界の中に人は 生かされているということを感じさせられつつ、ケーブルカー、バスを乗り継いで高野山へ。人と同じようなことをするのが 嫌いな私は、ここでも有名なお寺ではなくて、ひっそりと佇んでいる小さなお寺を選んで足を踏み入れてみました。 私以外には誰も観光客のいないそのお寺の庭石は、波紋のように綺麗に掃き整えられ、木立の中にある小さな池に流れ込む 水の音だけが、ひっそりとした空気の中に響いていました。庭の奥の方には小さな建物があり、開け広げた扉の中を覗くと、 一人のお坊さんがお経をあげておられました。その後ろ姿に真剣な祈りを感じました。
 弱さや汚れや愚かさなどを心の中に抱きつつ、その罪からの救いを祈り求める真剣な思いは、誰もが持つことができるものです。 高野山は仏教の街とされていますが、実際にそこに立ち、そこの空気に触れた時、神様の息吹を確かに感じました。
 感謝の祈りを捧げ、高野山を後にしました。

6月26日

 ここ何週間か、教会のすぐ裏の川沿いで、ホタルが舞っています。そんなにたくさん舞っているわけではありませんが、 多い日だと10数匹の光を見ることができます。
 私の実家のある福岡では、20年ほど前に家から自転車で20分ほど行くと、ホタルを見ることのできる場所がありました。 最初に赴任しました長野県伊那市という町では、車で30分ほどのところにホタルで有名な場所がありました。その美しい情景を 楽しみに、何度も足を運んだものです。けれども、まさか自分の住んでいる家の裏でホタルをみることができるなんて、 思ってもみませんでした。一人静かに川の音を聴きながら、ホタルの舞うのを眺めるなんて、なんという贅沢でしょうか。
 そんなホタルのポツポツと光る様子を見ながら、ふと思ったことがあります。ホタルの光を美しいと思えるのは、 ホタルの飛ぶスピードがちょうどいいからだ、と。虫の中では、ホタルの飛ぶスピードは決して速くはありません。もし、 もっと速く飛びまわったら、たとえ光ったとしてもこんなに美しいと感じられたでしょうか。飛ぶというよりも、舞うという表現が 似合うからこそ、美しさを感じるのでしょう。また、ホタルの大きさも程良いと思うのです。もしもホタルがカブトムシくらいの 大きさだったら、羽の音もすごいでしょうし、光りながら接近してきたら、恐怖を感じるかもしれません。
 幻想的な雰囲気を醸し出しながら舞い飛ぶ光を眺めながら、神様の御業の素晴らしさに改めて感動しました。 神様がこの地上に命を造られた時、それをご覧になって上出来だと思われました。その神様の作品として私たちも生かされ、 また他の作品を愛でることができる幸いを感謝したいと思います。

6月19日

 私は教誨師(きょうかいし)という働きもさせていただいています。教誨師とは、刑務所や少年院などに収監されている 人たちに宗教家としての立場で面接をしたり、講演をしたりする人のことです。私は、数年前から和泉学園という少年院で 奉仕をさせていただいています。そこにいるのは、10代の男の子たちです。今年度は、個人面接を一人につき一回に一時間 くらい行っています。彼らが犯した罪はそれぞれですが、私が担当する子たちは、より重い犯罪を犯した子たちです。 「何やったん?」と聞くと、驚くような犯罪歴を語ってくれる子もいます。
 けれども問題なのは、犯した罪の内容よりも、何故そんな犯罪を犯すようになってしまったのか、ということです。 少しずつ話を聞いていくうちに、ほとんどの子に共通するものが見えてきます。それは、“愛される”という経験の欠如です。 自分が愛されている、必要とされているという感覚を知らずに育ってきた子たちがほとんどです。親に、もっとかまってほしい、 自分を見てほしい、そう思って非行に走るケースが少なくありません。和泉学園で更生し、もう一度やり直そうと決心しても、 親が引き取りを拒否するためにいつまでも園から出られないという子もいます。
 そんな子たちに、愛されている命であることを、少しでも伝えたいと思っています。神様が造ってくださって、 大事に大事に愛しておられる命なんだということを、忘れずにいてほしいと思っています。面接の最後にお祈りをして、 固く握手をし、「頑張りや!祈ってるで!」と声をかける私に、まだあどけなさの残る笑顔で「はい!」と 応えてくれる彼らの幸せを、ひたすら祈るのみです。

6月12日

 先週水曜日、清教学園の高校生たちが古典観賞会で歌舞伎を見に行くということで、私もそれに便乗して行ってきました。 演目は『仮名手本忠臣蔵』の十段目です。大星由良之助(大石内蔵助)が討ち入りのための武具を、堺の商人である天川屋義平に 依頼し、極秘で運び出すという場面での出来事が描かれています。由良之助は、義平をどれだけ信頼できるか試すために、 役人に扮した部下を天川屋に送ります。そうとは知らない義平は役人の登場に驚きますが、その武具が討ち入りのためのものだと 決して言いません。我が子を人質に取られ、刀を突き付けられても断固として譲りません。しかも、義平はすでに妻おそのを離縁し、 由良之助に忠誠を誓う覚悟を決めていたのです。その義平の覚悟に胸を打たれた由良之助は、討ち入りに参加できない義平の 思いと共に戦う意味を込めて、合言葉を“天”と“川”にしました。また、おそのを義平のもとへと返してやるのです。主君の無念を 晴らすため命を捧げる由良之助。その由良之助の決意に命がけで答える義平。お店が取り潰しになることも覚悟で義平の もとへと帰ってくるおその。それぞれの忠誠心に、私も心を打たれました。
 何かと人を疑ってかかる現代において、人々が忘れかけた大切なものを思い出させてもらったように思い、 清々しい気持ちにさせてもらいました。
 それと同時に、主人に忠誠を尽くすことに関して自らを省みてみました。私たちにとっての主人は神様です。 自分はここまで命を懸けて主人に仕えているだろうか、と反省させられました。我が子の命を奪われようとも忠誠を 尽くそうとした義平に、アブラハムの姿が重なり、私もかくありたいとの思いを強くさせられた古典観賞会でした。

6月5日

 引き際の重要性を感じることがよくあります。それまでその世界の第一線で働いてきた人が、年齢や体力、 気力の限界を感じて、そこから退く時をどのように定めるか、それはその人にとって最後の大仕事であるとも いえます。
 政治の世界で、スポーツの世界で、どの世界においても引き際が肝心であるということができるでしょう。 引き際が悪かったら、それまでどんなに大きな功績を残してきていても、人々の記憶に悪い印象を残してしまう ことになりかねません。早すぎず、遅すぎず、ちょうど良いタイミングを見計らうということはなかなか難しいこと なのかもしれません。
 牧師の世界でも同じように言うことができるでしょう。ただし、牧師の場合は神様から与えられた責務であるという、 信仰による考え方があるので、自分だけの判断で引き際を決めることはできません。神様に祈りながら、今だ、と神様が おっしゃるタイミングで自分の身を引かなければなりません。たとえ、自分の判断ではまだできると思っていてもです。 人間の思いとしては、それまで共に信仰の歩みをしてきた兄弟姉妹と離れることは淋しいことです。けれども、 そのような思いを優先することはできません。主によって牧師として立てられたのですから、引き際も主によって引かせ ていただくのです。
 私も長居教会で、「次は神様のところで再会しましょう。」と約束をしてきました。地上での出会いと、地上での別れは セットになっています。それに加えて、御国での再会も私たちには約束されているのです。もし地上で再会できなくても、 最終的には皆神様のところに集合できる、その幸いを感謝しつつ歩んでまいりましょう。

5月29日

 出会いというのは、不思議なものだと思わされます。あの日あの時あの場所にいなければ、出会っていなかった ということも多々あります。
 五島先生とは、同じ大阪教区にいながら、ほとんどお話をする機会はありませんでした。昨年の9月頃だったでしょ うか、清教学園のチャペルで五島先生が説教をされた後、初めてゆっくりとお話させていただきました。その日から まだ一年も経っていませんが、この短い期間に五島先生の牧会のお姿からたくさんのことを学ばせていただきました。 今、私にとってなくてはならない出会いが備えられていたことを心から感謝しています。
 五島秀子姉には、初対面の時から何の遠慮もしなくていいと思ってしまうほどの親しみを覚えました。何でもズバズバ とおっしゃっておられるようで、心細かい配慮をしておられるお姿に、人と向き合う時に大切なことを学ばせて いただきました。
 秋庭江美子姉との出会いは、昨年10月の青年礼拝の時に、私が説教をさせていただいた時でした。その日の礼拝の司会 をしてくれたのが秋庭江美子姉でした。それから約半年後、みぎわ教会で再会することができました。みぎわ教会でたった 二カ月でしたが、いつも周りを明るくしてくれる江美子姉の笑顔はずっと心に残ることでしょう。
 林嘉全兄とは数回しかお会いできませんでしたが、穏やかに強く江美子姉を愛しておられるお気持ちが、ちょっとした しぐさや言葉の中に感じられて、こちらも幸せな気持ちにさせていただきました。
 こうして出会えた奇跡によって、遠く離れても顔やしぐさや声を思い出しながらお互いに祈ることができます。主の お計らいに感謝です。

5月22日

 先週の就任式では、たくさんのご来賓の方々とみぎわ教会の皆さんに包まれて、本当に幸せな思いに満たされました。 司式をしてくださった村上恵理也牧師、いろいろと準備してくださった方、当日も心を配ってご奉仕くださった方、出席 をしてお祝いしてくださった方、出席はできなかったけれども祈ってくださった方、お一人お一人の愛に支えられて、今 自分はここに立つことが許されているんだと、強く思わされました。そして、私のようなものを用いてくださる神様に、 心から感謝しています。
 式の中で読まれた誓約の言葉をしっかりと胸に刻んで与えられた勤めを全うしていきたいと思っています。「あなたは この教会に招聘されたことを神の御旨であると信じ、主の栄光のために自らをささげる覚悟がありますか。あなたは神の 恵みによってすべてのことを、御言葉に仕える者としてふさわしく行い、この教会の牧師としてのつとめを忠実に果たす ことを約束しますか。」短い言葉ではありますが、これを誓うとなると、とても重い言葉です。「神と会衆との前で謹んで 約束いたします。」つまり、神様への約束を、神様と神様に招かれた兄弟姉妹に証人となっていただき、誓いを立てると いうことです。普段緊張することもなく、就任式中も他の時は緊張していなかった私ですが、この誓約の時だけは心臓の 鼓動が早く大きくなるのを感じました。
 完全で全能なる主がこれからも歩む道を守ってくださいます。その主に委ねつつ、不完全なる自分の誓約を心に刻んで 歩んでいきたいと思います。これから、どうぞよろしくお願いいたします。

5月15日

 本日、午後3時から就任式が行われます。私が河内長野みぎわ教会の主任担任教師となるなんて、一年前には 思ってもみないことでした。
 3年前の4月から清教学園で非常勤講師をさせていただいていますので、みぎわ教会がこの場所に立っている ことは知っていました。清教学園に一番近く、生徒たちが目の前を通って登下校する立地条件は、なんて素晴ら しいんだろうと思っておりました。まさか、その教会に自分が赴任することになるなんて!!
 清教学園の生徒たちは、そのほとんどがキリスト教に触れたことのない子たちです。清教学園に入って、初めて 聖書を読み、讃美歌を歌うという経験をします。ですから、なぜ聖書を勉強しないといけないのか、なぜ学校の 礼拝に出ないといけないのか、その意味を最初は知りません。そんな生徒たちに、年に25回くらいの授業で伝えら れることは限られています。在学中に教会に導こうと力を入れ過ぎると、かえって空回りしてしまいます。種まきの つもりで、長い目で見ていかなければなりません。けれども、種まきのやり方を間違えれば、かえってキリスト教 から遠ざけることにもなりかねません。慎重に、かつ大胆に、御言葉を語っていかなければなりません。
 その種がいつ芽を出すのか分かりません。いつ、どんな形で生徒たちが教会に来てくれるのか、在学中か、 それとも卒業してからか・・・。朝と夕方、わいわいがやがや、にぎやかに教会の前を通っていく可愛い生徒たちを 眺めつつ、祈る日々です。

5月8日

 去る5月3日、4日に大阪教区総会が行われました。みぎわ教会からは、浅田晋太郎兄と私とで出席いたしました。 役員でなければ、総会がどういうものであるか、ご存知ないと思います。私の個人的な印象ではありますが、教区 総会は政治的な色の濃いものであると感じています。その場におりますと、国会の様子を思い出すほどです。学閥や 派閥のようなものがあり、それぞれが擁する候補が三役になれるように票を取りまとめ、自分たちの出した議案が 可決されるように仲間を集め、違う派閥の議案は否決されるように必死で反対意見を述べ・・・ふと、神様の御心を 祈り求めるという思いは忘れられてしまったのだろうか、と思ってしまうほどです。何を決めるにも多数決ということを、 全面否定するわけではありませんが、議長、副議長、書記を選出する際に、数人に絞ったあとに最後はくじで決める、 というくらいは神様に委ねてもいいのではないかと思っています。もっと委ねて、もっと恵みを分かち合い、もっと 喜びにあふれる総会が実現しないものだろうか、と毎年思わされます。きっとそう思っている牧師や役員は少なくな いはずです。けれども、誰もそれを声に出すことはできません。そんな総会に、隠退牧師のスピーチで壇上から五島 先生がずばりおっしゃってくださいました。「こんな不毛な議論はやめて、恵みに満ちた総会にしましょう。」その ために、まず私たちにできること、それはみぎわ教会の礼拝で豊かな恵みに与ることです。いつの日か、恵みに満た された総会となることを祈りつつ。

5月1日

 牧師は孤独になりやすい、と言われることがあります。確かに、立場的にその可能性もあると思います。孤独に ならないように、牧師同志の交わりもとても大切です。そのために数年前から私と同年代の牧師たちで説教勉強会を 月に一度やっています。今夜も、大阪福島教会で19時から行う予定です。同年代の牧師たちですから、家庭の環境も 似ています。みんなそれぞれ小学生以下の子どものパパという立場でもあります。小さい子どもを持つ父親としての 意見を交わし合うことができます。そこでいつも話題となるのが、子どもと遊ぶ時間の確保についてです。日曜日は もちろん遊ぶ時間はありません。土曜日も礼拝の準備のために遊べない時が多いです。そうなると、国民の休日しか 一緒に遊んでやることができません。けれども、休日にも何かと教会の行事が入るものです。今週行われる教区総会 もその一つです。説教勉強会メンバーで、「教区総会をGW中に行わない」という議案を提案しようかと真剣に考え たこともありました。
 私の一世代上の牧師たちは、家庭を犠牲にすることが多かったように思います。けれども、牧師の家庭での伝道も 大切なのは言うまでもありません。牧師の子どもは家族みんなで遊んだ記憶を持てないというのは、御心ではない はずです。ですから、私は子どもとの時間を少しでも大切にしたいと思っています。これからの教会を担っていく 子どもたちから、牧師の家庭っていいなと思ってもらえるように…。

4月24日

 先週の教会総会の資料に、所信表明を書かせていただきましたが、その中で「礼拝を中心とした生活を確立する」 ということを記しました。毎日の生活の中心に礼拝があり、そこで恵みに満たされることの大切さを、みぎわ 教会に来てから妻ともよく話をしています。礼拝全体が主の恵みで満たされ、喜びに包まれなければ、そこから 始まる一週間へと歩み出す力をもらうことができません。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る 言葉によって生きる。」と言われたイエスの御言葉を強く実感しております。みぎわ教会の礼拝において、皆さんが 本当に喜びに満たされ、生き生きとしておられることを感じます。その礼拝に共に集い、共に主を賛美し、共に 祈りを合わせ、共に喜び合えることを、心から感謝しているからこそ、転入会式の時に妻は涙があふれたのでしょう。 決して悲しい涙ではなく、喜びの涙ですのでご心配なさらないでください。
 礼拝全体が喜びに満たされるために、そこに集う一人一人が、神様を中心とした兄弟姉妹として愛し合い、 仕え合うことが大切です。そのためには、お互いをよく知るということも大切です。相手を知らなければ誤解も生まれ やすくなります。お互いにより深く知り合っていけるように、語り合い、交わりの時を大切にしていきたいと 思っています。私たち家族にも、お気軽に話しかけてください。もっとお互いを知り、もっと理解し合い、もっと 愛し合い、もっと喜びで満たされましょう。

4月17日

 私の仕事部屋は、牧師館の石川側にあります。障子を開けると、目の前に南海高野線の線路があり、 そこを通り過ぎる電車を間近に見ることができます。教会の横に、石川を渡る鉄橋がありますが、 そこを電車が通るたびにガタンゴトンと大きな音がします。人によっては、その音を耳障りだと感じる かもしれません。気になって落ち着かないという方もおられるでしょう。けれども、乗り物好きの私にとっては、 それはむしろ心地よく、やる気を出してくれる音です。遠くから聞こえる電車の音が、少しずつ大きくなって きて、やがて電車が視界に現れ、鉄橋を響かせながら過ぎて行く、そのほんのわずかな時間がとても好きです。
 以前、ある先輩の牧師に、「説教は作る時から誰かに語っているつもりで作ったほうがいい。」と言われた ことがあります。説教とは、目で見て読むのではなく、耳で聴くものですから、原稿を書く時からそのつもりで 書けということなのでしょう。実際に説教を作りながら、よくその言葉を思い出します。順調に書き進んでいる時 よりも、なかなか言葉が進まない時ほど、思い出します。そんな時、ふと顔を上げてみると、目の前をたくさんの 人を乗せた電車が通り過ぎていきます。まだ神様を知らない、多くの人たちが、それぞれの人生を抱えて、 通り過ぎていきます。その一人一人に神様は何を語りかけておられるのだろうか、そう思った時、不思議と言葉が 与えられるのです。そういう意味でもこの環境に感謝です。

4月10日

 先日、二人の女性と話をする機会がありました。一人は大学生ですが、アルバイトで ホテルの結婚式場で働いています。もう一人は高校を卒業してすぐに葬儀社に就職して3年目を迎えました。 毎日のように結婚式を見ているNさんと、毎日のように葬儀を見ているSさんと、その両方に携わることの 多い私と、それぞれの経験などを語り合うことができ、有意義な時を過ごすことができました。
 話をしていく中で、結婚する二人やそのご家族は百組あれば百通りであることを聞きました。それは、葬儀に 関してもそうです。一人一人がそれぞれ違う人生を歩んできて、違う足跡を残して、それぞれの最後の時を 迎え、それぞれの見送られ方をしていく。きっと、生まれた時から、それぞれ家族や地域やその人を取り巻く 環境が違い、それに伴ってそれぞれ違う人格が形成されて、違う道を歩んでいくのでしょう。この地上に生きる すべての人が、一つとして同じもののない、その人だけの道を歩んでいき、そしてその人だけの最後を迎えていく。
 人の命、人生というものを、考えさせられました。そして、そのすべてを神様が見守ってくださっていることへの 心強さを感じ、感謝の思いを深くさせられました。大きな御手の中で守られ、生かされている恵みを、日々感じながら、 喜びながら歩んでいく人生でありたいと願います。

4月3日

 河内長野みぎわ教会のみなさん、はじめまして。そしてこれからよろしくお願いいたします。 2011年4月から、河内長野みぎわ教会主任担任教師として赴任いたしました、福島義也です。 これから、この【牧師館だより】では、日常の中で神様から見せていただいた恵みなどを書いていこうと 思いますが、今回は初回ですので、簡単に自己紹介をしておきます。
 私は1973年4月14日生まれ。福岡県出身。妻の恵美子、娘の愛(まな)との三人家族です。その ほかに、犬のエステル、猫のサムソン、金魚(名無し)が同居しております。趣味はドライブとスポーツです。 車を運転できるなら、どこまでも走り続けたいほど大好きです。バスの運転手になるのが夢でした。 大型二種免許だけは取得しました。スポーツは全般好きですが、最近はまっているのがバドミントンです。 負けず嫌いなので、一度やると決めたら、中途半端で終われません。
 河内長野みぎわ教会での牧会においても、とことん主に用いていただこうと思っています。大きなビジョンを 持って、共に主を見上げながら歩んでまいりましょう。

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